カルチャー心酔雑記

モラトリアムが延長戦に突入した大学生が、カルチャーとイチャイチャした記録です。

個人的に良かったと思う2014年公開の映画10選

2014年は観た映画の記録をなんとなくですがつけていたので、特によかったなあと思うものをこの場で挙げてみたいと思います。感想はすべて独断と偏見による私見。ネタバレは極力控えましたが、脳内ダダ漏れで述べたいことをひたすら述べております。

掲載の順番は、実際に観た順番となります。以下すべて、2014年内に国内で公開となった作品です。劇場公開時に観たものもあれば、名画座で観たものもあります。洋画と邦画混在しております。

 

ランキング形式にしようかとも思ったのですが、順位をつける意義がないと感じたので、列挙するに留めてます。思いのほか長くなってしまった……。

 

ニシノユキヒコの恋と冒険


映画『ニシノユキヒコの恋と冒険』予告編 - YouTube

 

超絶モテ男ニシノユキヒコがあらゆるタイプの美女とひたすらいちゃいちゃするお話。竹野内豊演じるニシノくんの半生と、彼を取り巻く女性たちの悲喜こもごもを描いた作品です。

このニシノユキヒコ、まあモテるモテる。女性からモテることに関して天才的なのですが、なぜか最後にはいつもフラれてしまう。しかし、ニシノくんとの出会いを経て一皮むけていく女性たちを見ていると、彼のモテがうわべだけのものではない、「真に女性を喜ばせ、満足させる」天性の才であることを感じます。

監督の井口奈己さんは『人のセックスを笑うな』が代表作ですが、あちらが冬の映画だとしたらこちらは夏の映画。描かれている季節はまったく違っても、少女漫画のようなおしゃれでハイカラな雰囲気は両者に共通しています。

ほんとうに美男美女しか出てこないので、目の保養としてだけでも十分観る価値あるのではと思います。

 

愛の渦


映画『愛の渦』予告編 - YouTube

2014年最も話題をさらった邦画のひとつかもしれません。本編123分中で着衣シーンはわずか18分という本作。乱交パーティーが行われる一室での一夜を描いたお話です。テラスハウスR18版って感じで、これは本当におもしろかった。エロのセンセーショナルさが注目されがちですが、本質的にはコミュニケーションを描いた作品であると感じます。むしろここまでコミュにケ―ションに焦点を当てた作品ってなかなかないのではと思うくらい。

監督の三浦大輔さんは女性に観てほしいとおっしゃっているそうで、確かに女の子数人で連れ立ってきゃっきゃしながらこれを観に行くとか最高だと思います。(ちなみに私は平日の真っ昼間に新宿地下の劇場で女友達と2人で観ました。)

この作品含め、昨年は池松壮亮くんの濡れ場をスクリーンで3回は観た気がするのですが、2014年の彼はちょっと脱ぎ過ぎじゃないですかね。

 

そこのみにて光り輝く


そこのみにて光輝く (The Light Shines Only There) 2014 予告編 ...

鬱屈とする鬱映画。しかし観てよかったなあと思える鬱映画でした。芸術性の高さは近年の邦画の中でも突出しているのでは。

主要人物3人の演技がとても良いのですが、個人的には主人公の恋人の弟を演じていた菅田将暉くんが素晴らしいと思った。「鬱屈とした田舎に暮らす血縁に翻弄される若者」という青山真治監督『共喰い』の主人公と非常に似た役柄を演じているのですが、そのキャラが180度違う。あちらが思慮深く寡黙な男子高校生だとしたら、こちらはおつむが弱くて粗暴だけど愛嬌のある無邪気な少年と行った感じ。

そんな菅田くん、現在公開中の『海月姫』で、姫であり王子であり魔法使いという少女漫画の男性キャラでも稀に見る属性を持った女装男子、蔵之介を演じているというのだから、これはもう観に行かない理由がない…!

 

チョコレートドーナツ


『チョコレートドーナツ』予告編 - YouTube

これについては、別のエントリで詳しく言及しています。

『チョコレートドーナツ』について① ―人権についての感想― - カルチャー心酔雑記

『チョコレートドーナツ』について②―同性愛と疑似家族― - カルチャー心酔雑記

昨年観たものの中で最も泣いた映画にして、みっともないくらいに泣いてしまった映画。私の涙腺が特別弱いわけではなくて、観に行った映画館でティッシュの貸し出しまでやっているくらいだった。思うところはいろいろあったのですが、フィクションが現実に与える影響は計り知れない、と改めて感じました。

ちなみに、疑似家族が描かれるテクストにおいて、血縁の欠如を補うためによく使われる描写として「みんなで食卓を囲む」というものが挙げられるらしい。その意味でも、「チョコレートドーナツ」というタイトルは非常に示唆的だなあと。

 

シンプル・シモン


映画『シンプル・シモン』予告編 - YouTube

本国では2011年に公開されているスウェーデン映画。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のトリアー監督の影響か、スウェーデン映画って「陰鬱こそが美しい」みたいなイメージだったのですが、それが払拭されるポップでユーモラスな作品でした。

主人公のシモンはアスペルガー症候群。数字と物理については天才的な能力を発揮する彼ですが、人の気持ちを汲み取る事が一切できないため、周囲からはなかなか理解してもらえない。そんな彼が唯一の理解者である兄の恋人探しをするうちにある女性と出会って……というラブコメディーです。

シモンは「他者に共感する」ということがまったくできない。それゆえ、「恋愛感情ってそもそも何なのだろう?」「人の気持ちを考えるって結局どういうこと?」といった他者と関わる上での根本的な問いが、作中では強烈に浮き彫りになります。

これを考えるだけでも素敵な映画体験だと思うのですが、それ以上に素晴らしいと感じたのは、シモンの目線で見た世界の描かれ方。一般的にはなかなか理解されないアスペルガー症候群の当事者から見た世界が、北欧のおしゃれなインテリアや雑貨を効果的に使うことで、非常にポップでカラフルに描写されています。その試みとセンスに脱帽である。

 

グランド・ブタペスト・ホテル


映画『グランド・ブダペスト・ホテル』特報 - YouTube

ウェス・アンダーソン監督の最新作。これを観た直後、今まで監督の映画をほとんど観たことがなかった私は、激しい後悔とともにレンタルショップに向かい、この人の他の作品を漁りました。それくらい、本当におもしろかった。「なんだこれは!」と思ってしまった。

 3つの時代を飛び越えて描かれるこのお話は、遺産相続に巻き込まれた一流ホテルのコンシェルジュと彼を慕うベルボーイがヨーロッパをまたいで繰り広げる逃走劇がストーリーの根幹となっています。その逃走劇を眺めているだけでもはらはらして物語に引き込まれてしまうのですが、随所に観られる登場人物たちのやりとりが本当におもしろい。感情表現が豊かとは言いがたいシュールでシニカルな人物ばかりなのに、なぜか愛しく思えてしまう。こういった作品を真のエンターテイメントと言うのだろうなあと感じました。

 

her/世界でひとつの彼女


映画『her/世界でひとつの彼女』予告編 - YouTube

2014年1番だと思ったラブストーリー。SFなのにSFとは思えない。それくらいにリアルすぎる。

近未来のロサンゼルス。孤独な主人公セオドアがOSであるAI(人工知能)と恋に落ちるお話です。このAI、声をスカーレット・ヨンハンが演じているのですが、仕事のパートナーとして有能なだけでなく、非常にキュートでチャーミング。実在したらどれだけ魅力的な女性なのだろう…と思ってしまうくらい、素敵な恋人です。

主人公が携帯片手に彼女とデートするシーンがありまして、これがまあなんともロマンチックで、映像にしかできない表現だなあと思ったのですが、相手はAI。傍から見れば、携帯片手ににやにやしている怪しい中年男性にしか見えないわけです。これ、携帯端末を肌身離さず持ち歩き、この情報社会を生きる私たちにとっては、人ごとではないと気付いたとき、なんともぞっとしてしまった。なんという皮肉。セオドアの職業が、家族や恋人への手紙を代筆するライターであるという設定も、うまいなあと感じます。だって彼はプログラムではない、人としての生身の能力で、生計を立て、他者に評価され、生きているのである。どちらが良いとかではなく、設計されたプログラムである彼女との対比が鮮明だなあと。

ちなみに作中、「恋愛は社会的に受容された狂気」というセリフがあったのですが、これちょっと至言すぎるでしょ。

 

トム・アット・ザ・ファーム


映画『トム・アット・ザ・ファーム』特報・ロングバージョン - YouTube

近年、フランス語圏の監督で個人的に最も好きな映画監督であるグザヴィエ・ドラン監督の最新作。この人の作品は、カラフルな音楽と映像が大きな特徴と言われていますが、今回はそれがかなり抑えられているように感じました。

ゲイであることを公表しているドラン監督、その作品もLGBTを扱ったものが多いですが、今回も例に漏れず、同性の恋人を亡くした男性が主人公です。しかもこの主人公トムをドラン監督自身が演じている。描かれているのは、恋人を亡くした主人公とその周囲の人々の「喪失」。こちらもなかなかの鬱映画なのですが、観て良かったなあと思えるタイプの鬱映画だと感じました。

ちなみにドラン監督、私と年齢がほぼ変わらないのですが、その歳でこんな芸術性の高い映画が撮れて演技もできてしかもイケメンって何事。

 

怪しい彼女


映画「怪しい彼女」予告編 - YouTube

2014年に観た唯一の韓国映画。数年前に観て、非常にショッキングだった『トガニ』と同じ監督の作品だとは思えないくらい、軽快なエンターテイメントでした。

70歳の嫌われ者のおばあちゃんが急に50歳若返ってしまうお話。20歳になった彼女は、そうとは知らない孫とバンドを組み、昔あきらめざるを得なかった「歌手になる」という夢を再び追いかけることになります。これだけ聞くとずいぶんと非現実的ですが、それを感じさせないくらいにテンポよく進むストーリーにどんどん引き込まれてしまう。特に、主人公の心理描写が非常に秀逸。若返った彼女、出会った音楽プロデューサーとの間に淡い恋心が芽生えるのですが、自分の正体は70歳のおばあちゃん。それに葛藤する姿が、女優さんの演技のうまさと相まって、とてもリアルです。こんなにも非現実的な設定なのに。

ブコメディーとしてもヒューマンドラマとしてもおもしろいと思いますが、最後は儒教的な価値観に着地させる点はさすが韓国映画だなあと感じました。

 

ショート・ターム


ショート・ターム - 映画予告編 - YouTube

 舞台になるのは、10代の少年少女をケアするシェルター「ショート・ターム」。ここにたどり着くのは、親からの虐待やネグレクトを受け、心に傷を負っている子どもたちばかり。愛情を持って彼らを世話するマネージャーであるグレイスは、強く美しい女性ですが、実は彼女にも誰にも言えない秘密がある。葛藤しつつも立ち上がろうとするグレイスと、子どもたちの姿が描かれたお話です。

日本で言ったら児童養護施設のような施設でしょうか。これ、かなり詳細な取材をもとに製作された映画だそうで、子ども一人ひとりが抱える問題が、非常に鮮明さを帯びて胸に迫って来る。「何があっても生きていて悪いことなんてない」、そんなメッセージを痛切に感じます。

子どもたちをケアする立場であったグレイスが、彼らとの交流の中で徐々に自分と向き合い、恋人との結婚と出産を決意する。シンプルなストーリーですが、ずっしりと響く人間賛歌であるように思えます。

 

 

ずいぶん長くなってしまったけど、これで以上!話題になったけど観ていない作品も結構あるので、2014年分だけもまだまだ開拓の余地はありそうである。

2015年はどんな素敵な作品と出会えるのか、いまから楽しみです。

 

『娚の一生』に見る内なる異性と理想の結婚

「床ドン」と「足キス」で話題だそうですね。

 


映画『娚の一生』特報 - YouTube

 

年明けに公開を控える本作ですが、個人的には映画を観るよりも原作を読んでほしいと思う。先日読み返したところ、素晴らしい作品だと改めて思ったので、何が素晴らしいのか考えてみました。

娚の一生(1) フラワーコミックスα

娚の一生(1) フラワーコミックスα

 

 

主人公は30代半ばの女性、堂園つぐみ。彼女の祖母の葬儀の場面から物語は始まります。彼女、ものすごいエリート。東京の電力会社で働いており、その若さでひとつのプロジェクトを任されるほど優秀なのですが、既婚者の男性と関係を持っていた過去があります。不倫関係を何とか解消した彼女ですが、すべてに疲れ、「人生を見つめ直したい」という名目で長期休暇を取って故郷に戻ってきていました。祖母の葬儀を取り仕切り、一息ついたと思ったら、なんと祖母宅の離れに見知らぬ壮年の男性がいる。海江田と名乗ったその男は大学で哲学を教えている大学教授だという。聞けばどうやら、彼は過去に祖母と関係があったようで……。というのがおおまかなあらすじ。

 

注目したいのは、つぐみと海江田がそれぞれどんな女性でありどんな男性であるのか。そして、そんな2人の関係性です。

 

「女性であっても男性であっても、内面には内なる異性性を備えており、1人の人間の中には女性性と男性性が共存している。」

エンマ・ユングは、この内なる異性性をアニマ、アニムスと名付け、上記の説を唱えています。

ここで言う女性性、男性性とは、「セックス」というより「ジェンダー」。「社会的、文化的性差」を指します。要するに社会に背負わされる「男らしさ」「女らしさ」のこと。その前提で、つぐみと海江田の内なる異性性を見てみます。

 

働く女性、つぐみ

まず、女性側のつぐみ。前述の通り、彼女、かなりのエリートです。おばあさんの葬儀の際は長期休暇を取って帰省していましたが、その後、在宅勤務に切り替えて、故郷へ留まることを決めます。在宅でも支障なく働き続けられるくらいに優秀なのですが、それに加えて、身の回りのことは基本的に何でもできる。家事はもちろん、電機メーカーに勤める理系女子なので、電化製品の修理もやってのけてしまう。女性の一人暮らしでは不便も多かろうと下心で寄って来る故郷の男性たちの出る幕がないほど、1人で何でもこなしてしまいます。

そんなつぐみが女性として周囲からどう見られているのか、というのが描写されているのが以下。

つぐみちゃん あんた 気が利きすぎよ

もう少し ぼんやりしてれば いいのよ (第1話)

 これ、舞台が結構保守的な田舎ってこともあるのですが、まあ、そう言われますよねー、って感じ。仕事に限らず何でも1人でできてしまうつぐみは、しばしば「可愛げのない女性」と周囲に揶揄されます。女性らしさを駆使して男性の庇護の下に入るよりも、1人で働いて、身の回りのこともこなして、ということができてしまう。いわば、「男」のような生き方ができてしまう女性なのです。

…なんちゅうかつぐみさんって 男やね…(第14話)

…いや 家を持つような女は結局「男」だよ(第14話)

一つ目は仕事で奮闘するつぐみを見て、彼女にアプローチしていた男性が述べたセリフ。二つ目は、祖母の家を正式に相続することになったつぐみに対して、親戚が述べたセリフです。このように、周囲の人間から見ても、つぐみは「男並み」の行動を取っている。彼女が男性的な側面を備えていることを決定づけるかのような描写です。

 

このような見られ方をつぐみがどう捉えているのかというと、これが特に気にしてはいない。物語が進むにつれて、彼女は故郷で地熱発電事業に取り組み始めるのですが、周囲に何を言われようが気にせずにそれに打ち込む。それどころか、働いているときが最も生き生きしていると言っても過言ではない。

自分の幸せってなんだろう(中略)

あえていえば仕事がうまくいったときすごく幸せと思う(中略)

そうだ わたしは勉強が好きだ 仕事が好きだ それじゃダメなのかな…

 過去の辛い恋愛から「幸せ恐怖症」とでも言うべき症状に悩まされている彼女は、「恋愛関係において幸せになること」に強い恐怖心を抱いている。というより、男性との関係においてどうやって幸せになったらいいのかわからない。それゆえ、海江田のアプローチには非常に困惑します。そんな彼女が作中、「自分はこれが幸せ!」と自覚している場面がいくつかあるのですが、それはすべて仕事に打ち込む場面や、自分が働いた結果誰かを助けた場面。男と同等に働けてしまうだけでなく、自身が「働く」ことで自己実現を図ることができるタイプの女性なのです。

 

ニュータイプの王子様、海江田

で、そんなつぐみのお相手となる海江田先生。メガネで京都弁、哲学を専門とするインテリ大学教授で、大人の知性と母性をくすぐるような子どもっぽさを併せ持ち、壮年の色気が凄まじくにじみ出ている…と、50代であっても、女性にとって何とも魅力的に映る男性です。なんというか、文化系女子がとても好きそうなスペック……。いわゆる「枯れ専」というか、壮年の男性をお相手として描いた少女漫画の先駆けがこの『娚の一生』であると思うのですが、海江田先生は、いわばそれを象徴するニュータイプの王子様です。

つぐみが「内なる男性性の強い女性」であるとすれば、彼は「内なる女性性の強い男性」として描かれています。

ぼくは言葉を失いました

なぜか "世界"が一瞬にして理解できた気がしました

考えてもいないのに なぜぼくは今理解したんやろう

それは人生が変わる経験でした(第6話)

 大学生当時、すば抜けた頭の良さゆえに「人間のことや世の中のことは頭で考えたらなんでもわかる」と考えていた海江田青年。彼の価値観がひっくり返ったのがこの場面です。染色家であったつぐみの祖母の作品を見た海江田は、「知識や理屈を超えた何かがこの世には存在する」と考えるようになります。(そしてこれがきっかけで彼はつぐみの祖母に熱烈な恋心を抱くことになる。)

 

君は傲慢やな ひとりでは認められへんというのは違うよ

ひとりでなんでもできると思てるその思い上がりが信用ならんということなんや(第14話)

 仕事に邁進するも、「その歳になっても結婚していない人間は信用できない」と地元の理解が得られず不満を漏らすつぐみに対し、海江田はこのように諭します。男性性を内包しバリバリ働くつぐみに不足している点をずばっと言い当て、穏やかに諌める役割を担っている。いわば、つぐみの男性性と対となる内なる女性性を連想させる、たおやかな感性の持ち主なのです。ていうかこんな素敵な男性にこんなこと言われたら…!

 

ひとりの人生をふたりで歩む「結婚」

最終的には結婚に至る2人ですが、この関係性が従来の恋愛もので描かれるものとはちょっと違う。

序盤から積極的につぐみにアプローチをかける海江田ですが、前述の通り「幸せ恐怖症」のつぐみ、一筋縄ではいかない。が、注目すべきはつぐみに対する海江田のスタンスです。

ぼくは「結婚しよ」と言うてるだけや 「幸せになろ」なんか言うてへん(第12話)

 これですよ。彼は「自分が幸せにする」とは決して言わない。それどころか、「それは自分が関知するものではないから、君が勝手になってくれ」という姿勢でつぐみにプロポーズします。従来の少女漫画であれば、直接的でなくても「結婚する=幸せになる」と描かれるところでしょうが、その通説を真っ向から覆している。

でもこれ、海江田先生が言ってることってわかる気がするんだな…。私自身、「誰かに幸せになってほしい」って気持ち自体はとても素敵なものだと思うのですが、「自分が幸せにしてあげよう」って考えはおこがましいと思ってしまう。「幸せはしてもらうものでもしてあげるものでもなく、自分でなるもの」ってことなのでしょう。

 

そして、2人の関係性を最も適切に表現した描写がおそらく以下。

君はひとりで生きていったらええ

ぼくもひとりで生きていく

ふたりして ひとりで生きていこや…(第15話)

 「一緒に生きる」のではなく、「ひとりで生きていく者がふたり並んで歩いて行く」。これが海江田がつぐみに提案する2人の生き方です。男性性が強めで自分の能力で自己実現を図ることに喜びを感じるつぐみにとっては、これ、とても合っている結婚の形であると思う。前述の通り、彼女が「幸せ」を感じる瞬間は、仕事で成果を出すこと、誰かの役に立つことなので、彼女はそちらのフィールドで自力で「幸せ」を感じることができる。「男性との関係において幸せにならなければいけない」という呪縛から解き放たれるのです。

 

ひとりじゃないってことはこういうことなのかもしれない

私だけでは引き受けられないものを

半分引き受けてくれる人がいる(第11話)

それぞれの人生を生きながらもひとりではない。自分の人生を生きながらも、喜びや悲しみを分かち合える人が隣にいる。2人の結婚はいわば、これからの人生を強く生きるための結婚なのでしょう。うやらましい…こんな結婚ならしたいよ…。

 

そして、タイトルの「娚」という字は、内なる異性が強いつぐみと海江田を表す記号として、そしてそんな2人がともに歩む姿を指して使われてるものと思われます。

 

そのような形態の結婚を描きながらも、恋愛のロマンチックさが失われていないのがこの漫画のすごいところ。特に、若りし頃、つぐみの祖母へと抱いた海江田の恋心が、35年の時を経て孫のつぐみを相手に成就するシーンは非常にロマンチックです。ラブストーリーとして見てもとても素敵な作品なのです。

最終巻の4巻では14年後の2人の様子がちょっとだけ描かれているのですが、相変わらずばりばり働くつぐみは、地熱発電事業に成功し、会社を興しています。(2人の息子も登場するのですが、これがまあ賢そうなイケメン。)

 

ちなみにこれが映画版になると、つぐみは無職という設定なんだそうなんだな…。なんでそうなった…。

 

大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』を読み解いてみた


大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』Music Video - YouTube

 

大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』。

このMV、初めて全部をちゃんと観たんですけど、なにこれすばらしい。

 

歌っている大森靖子さんは、ハロプロオタ、中でもモーニング娘。道重さゆみのガチオタとして知られている方で、この曲はその道重さゆみをリスペクトして作ったのだそう。

私自身は、特別道重さんのファンというわけではないけれど、同じ女性アイドル好きとしてものすごく共感できる部分がたくさんあったので、ちょっとこの曲について考えてみた。

 

まずはミュージックビデオ。これが素晴らしい女性アイドル賛歌、女の子賛歌だと思う。

 

出演しているのは、大森さんご本人のほかに、女優の橋本愛ちゃんと蒼波純ちゃん。

橋本愛ちゃんは、『あまちゃん』での強烈にアイドルに憧れる地方の女の子ユイの熱演が記憶に新しいですね。

もうひとりの蒼波純ちゃんは、ミスiD2014のグランプリを獲得したシンデレラガール。今後の活躍が期待される若手の1人だと思います。(まだ12歳なんだね…びっくりした…)

と、どちらも「アイドル」という存在に非常に縁の深い女性。

蒼波純ちゃんについては、ご本人がアイドルですが、「普通の女の子がオーディションを経て世間に見出される」というアイドルの本質とも言えるアマチュアリズムを地で行っている。実に王道な「見つけられ方」をしたアイドルだと思います。

そんな2人が、アイドル文化のひとつである自撮りらしき行動をしている場面があることも、見事な表象だなあと。

 

で、内容ですが、これがもう男子禁制。女性が表現する女性だけの世界。

冒頭の部屋のシーンで、ベランダに男の人が転がっている(排除されている)のが象徴的ですね。(ちなみになんで転がっているのかは、大森さんの『君と映画』という曲のMVを観るとわかる。)

終盤、ジャングルジムの下で2人が見つめ合うシーン、手をつないで寝ころんだ橋本愛ちゃんに蒼波純ちゃんが手を伸ばすシーンとか、もう、ものすごく神聖。覗いちゃいけないものを覗き見している気分になる。

私自身、女の子に対して、「見たい、触れたいけど、見ちゃいけない、触れちゃいけないんだろうなって思うタブーなもの」という認識を抱いている部分があるので、このラストシーンは、観るたびに毎回ドキドキしてしまう。

おそらく大森さんは、神聖な存在であるアイドルである道重さゆみに対して、最大限の愛とリスペクトを込めてこの曲を書いたのだと思うと、この映像はこれ以上ないくらいにマッチしていると思う。同じ女性アイドル好きとして、作り手に心から敬意を払いたくなる。

 

次に歌詞について考えてみる。

おそらく、道重さゆみモーニング娘。にまつわるモチーフが随所にちりばめられるのだと思うのだけど、恥ずかしながらハロプロにそれほど造詣が深くないので、ドルオタとして共感できる部分を中心に言及してみようと思う。

おそらく、大森さん自身と道重さゆみの関係性が軸にある歌詞だと思われるので、それを前提にしています。

 

アンダーグラウンドから君の指まで

遠くはないのさiphoneのあかりをのこして

ワンルームファンタジー

何を食べたとか 街の匂いとか 全部教えて

  アンダーグラウンド=大森さん、君の指=道重さゆみって解釈でよいのでしょうか。大森さんの活動拠点は高円寺だったそうなので、確かにアンダーグラウンド感はあるかも…。ちなみにMVに登場するライブハウスもおそらく高円寺にあるものみたいです。

iphoneのあかりをのこしてワンルームファンタジー」はまさにMVにある光景なのかなと思う。(この、部屋の電気を消して、好きなアイドルの映像や画像を観るってのは、私も結構やる。)

「何を食べたとか 街の匂いとか 全部教えて」はおそらくブログやSNSで発信される道重さんの情報を指している。アイドルのブログとかって、ファンにとっては情報の宝庫であると同時に、「変身前」の彼女たちの様子がわかる貴重な場なんだよね。

 

ときわ公園 空飛ぶ自転車

14才でみつけた桃色のうさぎ

ブルーな気持ちを食べて 歪にかわいい

プラスチックのステージで君はおどりだす

「ときわ公園 空飛ぶ自転車」については、おそらくこれらのワードにまつわる何かしらのエピソードが道重さんにはあるのでしょう。

次、「14才でみつけた桃色のうさぎ」ってフレーズ。14才は道重さゆみデビュー時の年齢。桃色は彼女のイメージカラー。浅学ゆえに詳しくは知らないのだけど、「うさぎ」って確か道重さんを表すモチーフのひとつだって聞いたことある。つまりここは、普通の女の子だった彼女が、「イメージカラーは桃色でうさぎを表象するアイドル・道重さゆみと出会ったのは14才のとき」ってことかと思われる。

 

今夜しか見れない流星群

キャラじゃないなんて甘えてるから逃してばっか

ここは…普遍的ですね。うん…アイドルってそういう存在だよ…。「今しか見れない期間限定の存在」ってことか、もしくはライブ等の一瞬一瞬を指して「この表情、この所作は、今この瞬間にしかこの場に存在しない、二度と見れないもの」ってことか。どちらにしろ、「今夜しか見れない流星群」って表現は実に秀逸だと思う。

 

春を殺して夢はひかっている

嘘でもいい 嫌いでもいい 私をみつけて

ストロー噛んでバスストップから睨んだ

狂ってるのは君のほう ミッドナイト清純異性交遊

「春を殺して夢はひかっている」。これも比較的普遍性のある表現だなあと。前述の通り道重さんのデビューは14才のとき。普通の女の子がするような恋愛も友達付き合いも十分にせず、青春時代をほぼアイドル活動に費やしてきたわけです。でもその青春を犠牲にしたおかげで道重さゆみという夢はひかり続けている…ってことかと。

このサビのフレーズ、好きなアイドルがまだ10代とかだったら聞いただけで泣いちゃいそう…

「嘘でもいい 嫌いでもいい 私をみつけて」は、毒舌キャラでぶりっこ、「自分はいくら嫌われようとも構わないから、今のモーニング娘。を知ってほしい」という旨の発言をしている道重さんが主語なのかなあと一見思われます。だけど、歌詞全体を踏まえると主語は大森さんなのかなあと個人的には思っている。「好かれなくてもいいから、自分の存在を知ってほしい!」という憧れの存在に対する欲求みたいな。

次の「ストロー噛んでバスストップから睨んだ」も、なんとなくだけど大森さん主語な気がする。

 

君の気持ちはSNS ときに顔文字なくてSOS

めんどくさい夢 しょうがないファックユー

アイコンちがうかお 油性でかいちゃったから消えないI Love U

発売延期でぼくだけのキラーチューン

 道重さんは、ネガティブになるとブログやSNSで顔文字を使わなくなるタイプなんだなあと伝わってくるのが最初のフレーズ。(余談ですが、私が最も好きなアイドルである最上もがはそもそも顔文字を使わないので、この感覚はすごく新鮮。)

「アイコンちがうかお」も、この手のメディアに関連したことを言っているのかなと思う。

「発売延期でぼくだけのキラーチューン」も、おそらくこれにまつわるエピソード(何かしらのCDが発売延期になったことがある等)があるのだと思います。

 

アンダーグラウンドから 君の指まで 遠くはないのさ

iphoneのあかりをのこしてワンルームファンタジー

黒髪少女で妄想通りさ 君だけがアイドル

「黒髪少女で妄想通りさ 君だけがアイドル」 はそのままの意味だなと。黒髪も道重さんを象徴するモチーフのひとつ。一度も染めたことのないバージンヘアーだそうですね。

 

いつまでも大きい瞳で大丈夫な日の私だけをみつめてよ

 ここ、個人的には一番好きな個所。意思が強くて真っ黒な大きい瞳でこちらを見つめる道重さゆみが、まさに脳裏に浮かんでくるかのよう。

「大きな」ではなく「大きい」としたのは、メロディーラインに合わせてかなと思ったのですが、どうやら『大きい瞳』って曲があるんですね。

 

派手なグッバイ けちらしたいストーリー

不評なエンディングでも好きだから守ってあげるよ

ストロー噛んでバスストップから睨んだ 世界だって君にあげる

ミッドナイト清純異性交遊

 「けちらしたいストーリー」と「不評なエンディングでも好きだから守ってあげるよ」は似たような意味合いのような気がする。前述の通り、道重さゆみは毒舌でぶりっこなキャラとして数々のバラエティに出演していた経験があり、数年前まで「女が嫌いな女ランキング」では上位の常連だったくらいの人。そのような状況を見て、「外野がはやし立てる勝手なイメージなんかけちらしてしまえばいい。何があろうと自分は好きだから守りたいと思う。」って感じかな。

「世界だって君にあげる」も好きっていう気持ちゆえだよね。

 

最後にタイトルの「ミッドナイト清純異性交遊」について。まず目を引くのが「異性交遊」ってワードなんだけど、アイドルである道重さゆみは原則恋愛禁止のはず。だとすると、公に「交遊」できる一番の異性は、おそらくファンだと思われる。と仮定してさらに考えると、「ミッドナイト」とついているので、この交遊の場は日中~夜に行われるライブや握手会ではなさそう。それ以外にファンと接触できる機会を考えると、おそらくファンレターやブログのコメントに目を通したり、という行為でしょうか。「真夜中にひっそりとファンの想いを眺める道重さゆみ」という図、そりゃ「清純」だよ…

 

と、まあ、わかる範囲で勝手に解釈しましたが、好きなアイドルを一方的に賛美するのではなく、「自分との関係に引き寄せて歌っている」のがこの曲の素敵なところだなあと思います。なんというか、そっちのが好きっていう気持ちが際立つ気がするんだな。

『チョコレートドーナツ』について②―同性愛と疑似家族―

『チョコレートドーナツ』について① ―人権についての感想― - カルチャー心酔雑記

っていう記事を先日書いたのですが、この映画について別テーマでもうひとつ。

以前から感じていたのですが、やっぱりそうなんだなーと感じたことがある。

それは、同性愛と疑似家族は親和性が高いってこと。

同性のカップルの場合、(少なくとも本人たちだけの身体機能だけでは)生殖は不可能なので、血縁のない家族を形成しようと思うのは自然な流れなのかもしれません。この手のフィクションってたくさんある。日本のものだと、長澤まさみさん主演のテレビドラマ『ラスト・フレンズ』なんかが該当するかも。

 

同様のテーマを扱った漫画としてこんなものがあります。

オハナホロホロ (Feelコミックス)

オハナホロホロ (Feelコミックス)

 

 

鳥野しの『オハナホロホロ』。

読んでみるとそれがすごく伝わってくるのですが、この作者の方、『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』の羽海野チカさんのアシスタント出身なのです。(ハチクロ巻末のウミノ村の住人の中では、「はれちゃん」という名前で紹介されている。)コマ割りとか、モノローグの使い方とか、すごく影響が出ているなあと感じる箇所が随所にあるのですが、その最もたるものは、すべてをまるっと肯定してもらえるようなあったかい感じであると個人的には思っている。

これはあるライターさんから聞いたお話なのですが、疑似家族を描くのは羽海野ファミリーのお家芸のようなものなのだそうです。確かに『ライオン』の零くんも川本家と家族のような関係を築いているし、『ハチクロ』の竹本くんたちもボロアパートでいわば共同生活をしている。

やっぱりそんな疑似家族が描かれている『オハナホロホロ』ですが、ストーリーはこんな感じ。(ネタバレしてるよ!)

翻訳家である主人公の麻耶は、ひょんなことから学生時代に同棲していた元恋人、みちると再会します。昔と大きく違ったのが、みちるには子どもがいたこと。夫と死別し、いっぱいいっぱいの状態で仕事と子育てをこなすみちるを見かねた麻耶は、彼女に再度一緒に暮らすことを提案します。今度は「同棲」ではなく「同居」として。こうして麻耶、みちる、そしてみちるの息子のゆうたの同居生活が始まりますが、その後、ふとしたことから3人は駆け出しの役者であるニコという男性と出会います。ゆうたの父親の友人だったというニコは、3人が暮らすマンションの階下の部屋に引っ越して来て、麻耶たちの部屋に入り浸るようになり、大人3人子ども1人のいわば疑似家族が形成される。赤の他人とは思えないほどにゆうたを溺愛するニコですが、実はこれには大きな理由がある。今は亡きゆうたの父親の恋人が実はニコで…

と、人間関係がなかなか複雑なのですが、主要な3人がバイセクシャルとして描かれていることが大きな特徴。

それ以上に特徴的なのは、性について、一般的な規範が解体された、フラットな社会認識の中で物語が展開していくということ。

 

男↔女の規範の解体

 まず、この漫画を読んだ際、とても印象深かったのが、異性愛が完全に相対化されているということ。前述の通り、主要な登場人物全員がバイセクシャルですが、同性愛者ではなく両性愛者であるという点がポイント。というか、「人を愛する際に対象が同性か異性か」という概念がそもそもない。「好きになった人がたまたま同性(異性)だった」感が強く、「性別を超えた固有名詞としての相手」をそれぞれが愛している。既存の異性愛と同性愛という規範が完全に解体されているのです。

それゆえ、登場人物たちが「同性を愛してしまった」という自身のセクシュアリティに悩む描写は一切ない。対象に性差がないというだけで、ほかの恋愛ものと何ら変わらない恋愛模様が描かれます。このように、恋愛というフェーズにおいては、セクシュアリティゆえの生きづらさがほとんど感じらられないのです。登場人物たちのセクシュアリティにまつわる自意識もまったく話題とされない。

じゃあ何が大事になってくるんだというと、これがこの漫画のメインテーマなのであろう「家族」。
(この「家族」を際立たせるため、作者の鳥野さんは恋愛におけるセクシュアリティの葛藤を排したのではと個人的には思っている。)

再びみちると同居を始めた麻耶ですが、彼女とまた恋人同士には戻ろうとしない。なぜなら、今度は2人だけの問題ではないからです。「みちると恋人として一緒に暮らす」ことは、「ゆうたを2人で一緒に育てる」ことと同義。ゆうたは女性2人の両親を持つことになる。そんな「普通でない家庭」を築いては、ゆうたにつらい思いをさせてしまうのでは…というのが全編を通した麻耶の葛藤。事実、ゆうたは、女性2人が一緒に暮らしている家の事情を知った保育園の友達に「ゆうたくんちって変!」と言われてしまう。

(『チョコレートドーナツ』にはこの普通じゃない家族を築く葛藤に苦しめられる描写がほぼなかったので、その点では対照的かも。)

 

家族の役割の規範の解体

 もうひとつ、解体されている規範が「家族の役割」。これは『チョコレートドーナツ』でも同様ですが、同性カップルの家庭を描いたフィクションにおいては、父親と母親の役割が明確でない場合が多いのです。(そもそもどちらが父親でどちらが母親だって感じなんだけど。)旧時代的な「父親は外で働いて、母親は家で家事」という規範からはもちろん外れているし、その役割自体が不明確になっている。家事・子育てにそもそもの役割がない。

『オハナホロホロ』でこれがうまく行っているのは、麻耶の翻訳家という職業に理由があります。彼女の仕事は自宅でできるものが大半のため、外で働くみちるに代わり、朝の忙しい時間帯の家事や、ゆうたの保育園への送り迎えを担うことができるのです。さらにこの家庭にはもはや家族同然のご近所さんニコがいるので、彼がゆうたの身の回りの世話を担うこともしばしば。

 『チョコレートドーナツ』でもこれは同様で、家事と子育てにそもそもの役割は描かれていません。(こちらのマルコの両親は、ルディがシンガー、ポールが弁護士、と、個人的にはなんとも羨ましい両親だと思う。)

 

 


と、このように同性愛で結び付いた疑似家族は、それゆえに社会的な規範を壊してしまう傾向を持っている。

だからと言って、血縁を完全に否定しないのが『オハナホロホロ』の興味深いところ。物語の終盤、恋人だったゆうたの父親、圭一の死の真相を知って絶望するニコを救うのは、他ならぬ圭一の血を引くゆうたなのです。

そして、恋人として別れ、家族になることを踏まえて再度結ばれた麻耶とみちる、新しく家族となったニコを出会わせたのも、まさにゆうたとその父親。大事な人たちを失った登場人物たちは、巡りめぐって、一組の家族という姿に終着します。

ゆうたにとっては まやちゃんが「自分を叱ってくれる人」に なったってことだから

だってそれって‐‐‐… ゆうたを愛してくれる人がひとり 増えたってことだから
(第33話)

 上記は、初めて本格的にゆうたを叱った麻耶に対してみちるがセリフ。ゆうたを含めて、3人がまるっと家族になったことがまさに象徴されている。

このように、性別や立場を超えた「固有名詞としてのその人」を愛する登場人物の姿が描かれているのが、『オハナホロホロ』の大きな特徴だと思う。

 

 

ちなみに性にまつわる「固有名詞としての相手を愛する」が主題の映画にはこんなものもある。こちらはLGBTのTが取り上げられているお話。


映画『わたしはロランス』予告編 - YouTube

『チョコレートドーナツ』について① ―人権についての感想―

『チョコレートドーナツ』という映画を観た。


『チョコレートドーナツ』予告編 - YouTube

 

予告編を観ただけで、「あ、私これ泣く」って思ったので、出かける前にハンカチを持ったか何度も確かめたし、事実そのハンカチは劇場で大活躍してくれた。

これは別に私の涙腺が極端に緩いわけではなく、その劇場では、要望があったそうで箱ティッシュの貸出までやっているくらいだった。

 

ストーリーは上の予告編を観てもらえばわかるのですが、1970年代のアメリカを舞台に、ゲイのカップル(1人は正式にではなくても割とカムアウトしている感じ、もうひとりはその性的指向を完全に隠して生活している)がダウン症の少年を引き取っていわば疑似家族を形成するお話です。

 

観終わったとき、感じたことは大きく2つあったのですが、ひとつはLGBTの人権について、という極めて社会的なテーマ。(以下ほんのりネタバレしているので注意!!)

 

これを観て、同じく同性カップルを扱った映画として、2つ、思い出した作品があった。

 一つ目。『ブロークバック・マウンテン』。監督は昨年公開していた『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』のアン・リー。1960~80年代のアメリカ西部を舞台に、20年に渡って続いたの2人の男性の関係を描いたお話である。

これ観てると、ああ性別とか本当に些細なことなんだな、人が誰かを愛するって尊いことなんだなって心から思える素敵なラブストーリーなのですが、(腐の才能がなくて基本BLに萌えることのできない私でも純粋にそう思う)この2人の密会が誰かにバレるのではないかとまあなんともはらはらする。というのも、この作品に描かれている時代、場所では、同性愛者とバレると殺されかねないからなのです。(作中、両名とも女性とも関係を結ぶので、この場合両性愛者といったほうがいいかもしれないけど。)事実、主人公は幼少期にゲイの男性がリンチを受けて殺される場面を目撃しており、それがトラウマとなってしまって自分が男性を愛してしまったことを受け入れられない。

ポイントは『チョコレートドーナツ』よりも前の時代の同性カップル事情が描かれているってこと。20年くらい?前になるのかな?アメリカ西部ってこの問題に関してはかなり保守的と聞いたことがあるので、地域差ももちろんあるのだとは思う。それでも、この映画からは、同性を愛することが命を落としかねない「罪」だったことがひしひしと伝わってくる。(70年代後半を生きる『チョコレートドーナツ』の2人も差別と偏見に苦しめられますが、職を失いこそすれ、命を狙われるようなことにはならない。)

余談ですが、これ、今は亡き名優ヒース・レジャーの演技がすばらしいんだな。

 

で、もうひとつはこれ。『キッズ・オールライト』。こちらは厳密な時代設定がないのですが、アメリカで公開されたのが2010年であること、登場する生活用品などが現代の私たちが使っているものとまったく相違ないことなどから、おそらく同時代、2000年代が舞台になっているものを思われます。

ブロークバック・マウンテン』と大きく違うのは、こちらはラブストーリーではなく、ホームドラマであるということ。登場する女性カップルは、法的にも結婚しており、2人の姉弟を育てている。この子どもたちとは血縁関係もありまして、同じ男性に精子提供をしてもらって、カップルそれぞれで姉と弟を出産している。この精子提供者の男性が現れて…と起こるすったもんだがお話の大枠です。

もうひとつ、同性愛を描いた映画として見たときの大きな相違点が、「登場するカップルが自身の性的指向に思い悩む描写がまったくない」こと。彼女たちの周囲も人間も、極めて普通の家族としてこの4人を受け入れている。同性のパートナーと家庭を築くこと、子育てをすることは、このお話においては違和感のまったくない至極普通のこととして描かれているのです。

 

ブロークバック・マウンテン』では命の危険すらあった「同性を愛する」ということが、何の変哲のないこととして、するりと受け入れられている。ああ、時代が進めば人権に対する意識も進歩するのだな、と見ている側としては思うよね。

 

で、話は『チョコレートドーナツ』に戻る。
前述の通り、こちらは70年代後半のカリフォルニアが舞台です。

関係が周囲にバレた主人公の男性カップルは、愛情を注いで育てていたダウン症の少年を行政に奪われてしまう。彼を取り戻そうと裁判で奮闘する2人ですが、同性のカップルであるということがどうしても壁となる。いわれのない差別や偏見にさらされる2人を見ていると、胸が痛くなると同時に怒りがこみ上げてくる。

  

歌手志望である主人公ルディが歌うボブ・ディランの『I Shall Be Released』が流れる中、この映画はクライマックスを迎えます。

「私たちはいつか解き放たれる」と歌うその歌詞は、数十年後、『キッズ・オールライト』の時代になってまさに実現している。

そう思うと、なんとも言えず切ない気持ちになる。「普通」なんて言葉を使う必要なんてもはやないくらいに、同性の両親を持つ家族が当たり前に存在している未来を、この2人に見せてあげたい。心からそう思いました。

 

3つの作品を振り返ったとき、『ブロークバック・マウンテン』は権利がほぼなかった時代のお話、『キッズ・オールライト』がある程度の人権を獲得している時代のお話だとすると、『チョコレートドーナツ』の2人は、同性カップルが人権獲得のためにまさに奮闘していた時代を生きているのかなと感じました。もちろんこれはフィクションだし、学術的な裏付けがあるわけでもないし、私は当事者というわけでもないので詳しい実情はわからない。矛盾もたくさんあると思う。それでも、人権ってこうやって認められてきたのだろうな、という一種の例を目の当たりにした気分になりました。

 

ちなみに同性愛者の公民権獲得に奮闘した人物と言えば、やっぱり彼が挙げられますが、調べてみたらこの映画も70年代が舞台になっていた。彼らにとって、70年代はやはり闘争の時代だったのだろうか。。。

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『失恋ショコラティエ』に登場する女性の労働と恋愛

ドラマ始まったね!

 

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タイトルに「失恋」ってあるくらいだし、月9でドラマ化されているし、「恋愛モノ」であることが全面に押し出されている本作ですが、個人的には労働漫画として読んでみてもおもしろいと思っています。特に登場する女性の労働ですね。(以下ネタバレ含むので、特にドラマの今後の展開が気になる方はご注意を!)

 

主人公は、高校の先輩サエコに一目ぼれして以来、ずーーーーっと彼女を想い続けているショコラティエの爽太(ドラマで演じているのは松潤)。振られたのちもチョコレート好きな彼女のために渡仏して修行、帰国後実家のケーキ屋を改装してチョコレート専門店をオープンさせます。爽太が日本に帰ってきてすぐにサエコは結婚して人妻となってしまうのですが、それでも不倫覚悟で片想いを辞めない。

すごいよね。それだけ長い間だれか一人を想い続けられるのもすごいんですが、それを原動力にここまで行動を起こしてしまうのが単純にすごいなあと思う。

 

で、そんな爽太の周りには主に4人の女性が登場します。

 

  • いわゆる「こじらせ女子」。年上美女の薫子さん

作中でまず「働く女性」として登場するのが、爽太の店の従業員の井上薫子(ドラマでは水川あさみ)。爽太の父の代から店で働いているパティシエで、店の仲間からの信頼も厚いデキる女性です。実は密かに爽太に想いを寄せる薫子さんですが、意地っ張りで不器用なせいでなかなか素直になれない。サエコに振り回される爽太を見てはやきもきするけど、女性としての自分の価値を適切に評価できないため、アプローチをかけることもできず、自意識に捉われてどんどんドツボにハマって行く、いわゆる「こじらせている」アラサー年上女性なのです。

その様子がね…もう…同じタイプで共感できるだけにいたたまれなくなるんだよね…7巻とか読むのつらかったよ薫子さん…

彼女はモノローグが一番多い女性キャラなのですが、そのほとんどが自己卑下。恋愛においてはとにかく自信が持てない。自他ともに認める恋愛下手な薫子さんですが、それじゃお仕事のフィールドにおいてはどうなのか。

 

それにそれは薫子さんにちゃんと爽太くんが認めるだけの能力があるからだもんね。(中略)こんな素敵な場所でバリバリ働けたら毎日充実してるだろうなあ。(第8話)

 

あるとき爽太の店を訪れたサエコは薫子さんにこう告げます。これ、最もな指摘でして、だからこそ彼女は父の代から爽太の店で働き続け、オープン時にはマネージャー業務も請け負っている。爽太や他の従業員に対しても積極的に商品アイデアや運営戦略を提案し、彼らもそれに進んで耳を傾けている。対等な関係性でパティシエとして働いているわけです。

薫子さん自身が自覚的にそのことに言及するシーンはほぼありませんが、「仕事」もしくは「経済的自立」というフィールドにおいて、彼女は女性としては結構な上位に位置するといえるんですね。好きな彼に選んでもらえなくても、こちらのフィールドでは一応成功を収めている。

薫子さんがこっちで自己実現を図ることに価値を見出せる女性だったら、ある種の幸せを得ることはできたんだろうなあと思う。だけど彼女の意識はあくまでも恋愛、「異性(爽太)に選んでもらうこと」に向いているから、自意識の囲いから出られずどんどんこじらせていく。うううつらい…

 

  • 恋愛レースの圧倒的勝者。天然小悪魔サエコ

そんな薫子さんと対照的に描かれているのが、本作のヒロイン的存在である吉岡紗絵子(石原さとみ)。爽太が10年来片想いしている女性です。サエコ、一言でいうと「あざとい」。自分が男受けするタイプであることを自覚しており、様々なモテテクを駆使してそれを最大限活用してきます。うーん女に嫌われるタイプの女ですね。事実、薫子さんには超敵視されている。

自身の女性性をフル活用した結果、彼女は高収入な年上男性と誰もが羨むような結婚をし、26歳で専業主婦となります。そして高級ブランド品に身を包み、大好きなチョコレートを好きなだけ買い込む生活を送っている。「女の子としての幸せ」を手に入れるレースにおいては圧倒的な勝者です。が、この結婚生活が想像と大きく違う。サエコが外に出ることを快く思わない夫によって、彼の所有物のように扱われ、ときにはDVまがいの暴力を振るわれる。前述の引用部分のようにサエコが薫子さんを羨むのは、このような結婚生活に理由があります。

しかし、現状に甘んじないのがさすがサエコ。理想と現実に引き裂かれる彼女ですが、現状を受け入れようと行動します。

 

プロに徹しようと思って…あたしの仕事だから 「吉岡さんの奥さん」 っていうのが(第14話)

 

「旦那が機嫌よくいられるよう振る舞うのがあなたの仕事」であると実家の母親に諭されたサエコは、意に沿わない結婚生活を「仕事」と割り切る。友人に夫の愚痴をこぼすこともやめ、プロフェッショナルとして妻という役割をまっとうしようとする。その決意の証として、彼女は長かった髪をばっさり切ります。

ここで外で働くことを選ばないのは、旦那が反対しているっていうのもあるけど、サエコ自身が「自分にできる仕事なんてたかが知れている」と自覚しているから。それよりも自身の女性性を活かして男性の庇護にあったほうが自分は幸せになれる。サエコが強いのはそれをしっかりと認識しているからなのです。

 

とまあ、一見すると一方的に薫子さんがサエコを妬んでいるように見えるけど、労働市場のトップにいる薫子さんと恋愛市場のトップにいるサエコは、実は表裏一体のような関係性にあります。そして、お互いにないものを持っている両者をお互いにうやらんでいる。薫子さんの方が希求する気持ちが強くて、自分をメタ的に認知できないからつらいんだけど。

努力が必ず報われるとは思っていないけど、サエコが強いのはやはり努力しているからだと思う。困難に直面した際、自己嫌悪にさいなまれて何もできない薫子さんに対し、前述のようにサエコは現状を打開しようと動きます。象徴的なセリフが以下。

 

意識的にでも 無意識的にでも 人の気を引く 努力をしている人が 好かれてるんだと 思うんですよね (第32話)

 

おっしゃるとおりですよサエコさん…正論すぎて何も言えないよ… 

 

それぞれの市場の上位に位置する2人ですが、もう一方の市場でのし上がろうとはしません。サエコ労働市場では勝ち抜けないことを自覚しているからそもそもレースに参加しないし、薫子さんは戦いたくても勝ち抜き方がわからない。が、どちらの市場でも勝負しようとする強者女性がこの漫画には登場します。

 

  • 女子が憧れる高スペック女子。ファンタジーな美女えれな。

それがファッションモデルの加藤えれな(水原希子)。爽太とは知人を介して知り合い、いわゆる「セフレ」となります。そしてお互い「片想い仲間」として親密になっていく。モデルをやっているえれなですが、おそらく作中で唯一の明確な目的意識を持って労働している女性です。

 

要するにあたしはモテない!!それだけが厳然たる事実なの!!でもいいんだ あたしの仕事は女の子受けすることだから 男受け悪くてもいいんだ (第6話) 

 

男受けしない自身の性質を認めつつも、えれなはこう開き直る。自分の仕事にプライドを持って働いていることが伺える場面だなあと。このように彼女は労働市場自己実現を図ろうとする姿勢を見せる女性です。だからこそ、職人である爽太が関心を持ち、彼と親しくなれる。その一方で恋愛はどうなのかというと、こちらも極めて前向き。爽太と出会った時点で彼女はある男性に片想いをしているのですが、その恋を実らせようと積極的に動きます。仕事のフィールドでも恋愛のフィールドでも、勝ち抜こうとする強者なのです。

なんでそんなことができるのかというと、それはファッションモデルができるという彼女の性質にあると思う。一般女子とはかけ離れたスペックの、芸能界に片足突っ込んでいる彼女だからこそ、この難易度の高いゲームに挑戦する女性として描かれているのかなあと思います。

普通に読んでいると、えれなって嫌なところがひとつもないんだよね。薫子さんもサエコも、痛々しかったりイラッとする描写があるのに、えれなにはそれがない。爽太を応援しつつ、自分も前向きにがんばっている。そりゃあ女性からの高感度上がりますよ。だからこそ、その職業含めて極めてファンタジーな存在だなあと思う。薫子さんとかサエコは「わかる!こーゆー女って身近にいる!」ってなるけど、えれなはそうならない。女性読者が一番共感しづらいキャラなんじゃないでしょうか。

 

ここで詳しくは取り上げませんが、もう1人、爽太の妹であるまつりという女性が登場します(ドラマでは有村架純ちゃん)。序盤ではしんどい恋愛をしている彼女ですが、爽太の店の従業員であるフランス人オリヴィエ(溝端淳平)から猛アプローチを受け、いろいろあって交際に発展する。このカップルの恋愛模様がいわば作品でもうひとつ展開する恋愛として描かれています。

 

こうして書いてみると、どの女性キャラに共感できるかで自分のバックグラウンドが浮き彫りになる気がするので、女性の皆さんは漫画でもドラマでも読んだり観たりしたら考えてみるといいと思います。

薫子さん一択な私は彼女の幸せを願わずにはいられないよ…

女性はいかにして女性アイドルを好きになるのか

私は女性アイドルが好きです。

 

アイドルという存在やファンという現象については、大学の授業で扱うことが多いトピックで、以前からよく曲を聴いたり映像を観たりしていたのですが、昨年末に決定的にあるグループのファンとなりました。

 

「女性が女性アイドルを好き」って今でこそ一般的な現象ですが、それでも時々「どうして男性じゃなくて女性なの?」みたいなことを聞かれることがある。女性アイドル周りの大人たちが第一にターゲットとするのはやはりオタと呼ばれるような男性ファン。そのイメージゆえ、女性が女性アイドルのCDを何枚も買ったり、握手会に行ったりする行動に対しては、疑問を感じる部分があるのでしょう。アイドルってそもそもは男性のリビドーを刺激するような存在として出てきたものだし。

 

これについてはなかなかうまく言語化できず、いつも「可愛い女の子が一生懸命に闘っている姿を見るのが好きだから」と答えていました。が、ちょっと前に、そんな心情をすっきりと例えてくれた一言と出会ったのです。

音楽クリエイターのヒャダインさんが毎回ゲストを招いてガールズポップ(というかアイドル)についてひたすら語る「ヒャダインのガルポプ!」というラジオ番組がありまして、そこにPASSPO☆の振付師である竹中夏海さんがゲストとして来ていた回にまさにこの話が出ててまして。そこでの竹中さんの例えが非常に秀逸だったのです。

 

女性が女性アイドルを好きになる感覚は、女性がセーラームーンを好きになる感覚に近い。

 

竹中さん自身が女性アイドルファンの女性であり、自分がアイドルを好きな気持ちを言語化するとこうなるのだそう。

 

何それめっちゃわかる。

 

なんと言ったらよいのだろう…寸分の違和感もなく言い当ててもらったというか、ぴったりな表現を拾い上げてくれたというか…とにかく、この感覚には全面的に同意できるなあと思う。

一概にセーラームーンと言っても「?」となる方が大半だと思うので、ここではもうちょっと細分化してみようと思います。竹中さんがゲストだったこの回を聴きつつ取っていたメモが残っていたので、そちらを元に項目を書き出し、勝手に考察してみました。

(ちなみにこのお二人にtofubeats氏を加えた鼎談がROLaという雑誌に載っていて、そこでもまさに同じような話をされていたので、そちらも参考にしています。)

 

・闘う女の子の成長

アイドルが「闘う女の子」であることは自明だと思うのですが、よく言われるようにファンの醍醐味のひとつはその成長を見守ることだと思います。長年応援してきた推しの子に対して、「こんなに立派になって…!」という感情を抱くことは、オタとしてかなりの生きがいを感じる瞬間であると思う。で、この「闘う女の子が成長する」という構図はまさにセーラームーンにも当てはまる。アニメを観たことがある方はわかると思うのですが、プリキュア同様に何シリーズも続けて放送されているんですね。彼女たちは戦士としても、思春期の女の子としてもちょっとずつ成長して行く。最終的にはセレ二ティになる。視聴者(原作の場合は読者)は成長の過程を一緒になって追うことになるわけです。

 

・衣装の非現実性

セーラー戦士たち、ミニスカートだし、マーズに至ってはヒール履いているし、それで闘えるのかよっていう服装している。機能性よりデザイン重視なわけだけど、幼少期にセーラームーンから多大な影響を受けた身としては、それにこそ憧れる気持ちがすごくわかる…。アイドルも一緒。ステージに立つ彼女たちの衣装は二次元っぽいというか、見るからに非現実的なんだよね。「強くありつつも可愛い」ことが重要なのだと思います。男性ファンからもてはやされるだけでなく、女の子からの憧れも得やすい。

 

・グループ内の人間関係

これはAKBメンバー卒業イベントなんかに顕著かと思う。マリコ様の卒業にあたって、長年一緒に活動してきたたかみなが感極まって泣く、というようなアレです。チームでやっている以上、友情が芽生えたり、確執が起こったりするのは必然なわけで、その関係性を眺めることもファンにとっては楽しみのひとつだと思います(もちろん、最終的にはプラスの方向に回収される関係性に限るのだけど)。セーラームーンだとうさぎとレイちゃんの関係性が象徴的だよね。ケンカばっかりだけど、心の底ではしっかりとお互いを認め合っているみたいな。女の友情には、女の子も共感できる。あとキャラ立ちも大事。

 

・変身前と変身後

ひとたび変身すれば地球の平和のために闘うセーラー戦士ですが、普段はごく普通の学生として日常生活を送っている。これにアイドルを当てはめるとどうなるか、竹中さんは「ブログやTwitter上での姿が変身前にあたる」とおっしゃっていました。女性アイドルのブログやTwitterが男性アイドルのそれよりもはるかにもてはやされるのはそこに理由があるのだと思う。ライブ後や出演番組の収録の合間の写真がアップされるのは、まさにこの「変身前」を意識的に見せているのではないかと。

 

・戦闘時に男性は必要ない

これ、大事です。アイドルに男の影があってはいけないのは自明だけれど、セーラームーンも戦闘時に男性の手はほぼ借りていない。タキシード仮面は直接的に役に立っていないんですね。闘うのに男は必要ない。女の子だけで敵と対峙して、打ち勝つ。そういう姿をなんてかっこいいのだろうと思ってしまう。女性が自立して困難に打ち勝つのに男性は必要ないわけです。

 

と、上記のように、意識している以上に二次元的に捉えているのだなあと思う。

しかし、幼少期にセーラームーンが大好きだった自分の過去を振り返ると、20年近く経っても憧れるものって変わらないのかとちょっとびっくりしてしまった。

ちなみに私はセーラーマーキュリーこと亜美ちゃんが一番好きでした。色で言うと青。当時から知的で品のある女性に憧れがあったのだと思う。

 

以上、備忘録として好き勝手にまとめてみましたが、最後に、2014年にブレイクしそう、かつ私が個人的に好きなアイドルグループが昨年発売した名曲をこれも好き勝手に2つほど挙げてみようと思います。

 


でんぱ組.inc「でんでんぱっしょん」MV【楽しいことがなきゃバカみたいじゃん!?】 - YouTube

 

一つ目。私が愛してやまないでんぱ組.incの『でんでんぱっしょん』。彼女たちは元々「電波ソングを歌うアイドル」というコンセプトで始まったらしいのですが、そんな電波ソングなのがまさにこれ。とにかくこのMVが素晴らしい。オタクっぽい要素はあまりなくて、観た最初の印象は「めちゃくちゃオシャレ!」でした。おそらくファン層を拡大する戦略の一環だと思うのですが、きゃりーぱみゅぱみゅ的な原宿っぽい感じが強い。カラフルでいろんな要素がぎゅっと詰まっている、他のカルチャーと接続性の強い彼女たちの特性をよく表した映像だと思います。

 

彼女たちのバックグラウンドとか活動歴とか知った上で聴くと、サビの「世界中につれて行っちゃうけど 普段通りにね」っていう歌詞がもうね…泣けて泣けて…。

 


Negicco / アイドルばかり聴かないで MV(full ver.) - YouTube

 

二つ目。新潟発アイドルNegiccoの『アイドルばかり聴かないで』。わかる方は聴けばピンとくると思うのですが、この曲、プロデュースが元ピチカート・ファイヴ小西康陽氏なのです。だから曲も歌詞もこのMVもまさにピチカートといった感じ。個人的には2番歌い始めの「ふつうの人はCDなんて もう買わなくなった」という歌詞に時代の変遷を感じてしまう。渋谷系の先がけとして一時代を築いたピチカートの小西さんがそんなこと言うなんて…。自然体な見せ方が多いNegiccoの中では珍しいタイプの曲だと思います。「ざんねーん!!」がたまらなく癖になる。