カルチャー心酔雑記

モラトリアムが延長戦に突入した大学生が、カルチャーとイチャイチャした記録です。

『何者』を読んで考えた「意識が高い」ことについて

「意識高い」

 

って言うと、大体の場合、うしろに(笑)って付くと思う。

嘲笑や揶揄を意味することがほとんどだよね。

 

周りに就職活動に勤しむ後輩も多いので、今回はこの小説を通して、「意識高いのは揶揄される宿命なのか問題」を考えてみた。

何者

何者

 

 朝井リョウ『何者』。言わずと知れた2013年の直木賞受賞作ですね。書店でも今年最も押し出された商品なのではと思います。

 

朝井さん、お隣の学部の卒業生なので、うちのキャンパスの生協に入ると、まずどーんっと朝井リョウコーナーみたいなスペースがある。朝井さんが在学中に書いたらしいサインとともに、作品がばーっと平積みになって並んでいる。

私個人としては特別好きな作家さんというわけではないのですが、この人のやっていることというか、スタンスはとてもおもしろいなあと思っているので、新作が出るたびに小説は読んでいるし、出演メディアもだいたいチェックしている。(余談なのだけど、ananで朝井さんが社会学者の古市憲寿さんとやっている連載がおもしろくて、毎週ananを立ち読みする習慣がついた)。

 

証明写真を彷彿とさせる装丁から想起されるように、『何者』は大学生の就職活動と自意識(とちょっと恋愛)をめぐるお話です。主人公を中心とした5人の大学生が就活戦線に繰り出すのですが、この5人は性格も就活に対するスタンスもまったく違う。で、インターネット社会を生きる大学生らしく、それぞれのTwitterの裏アカを割り出してチェックしたり、友人が内定をもらった企業のブラックさをググったりしちゃう。ひゃーこわい。表面上は協力し合っていても、相手が自分より良い企業から内定をもらわないかひやひやしている、主人公の拓人もそんなタイプの人間として描かれています。

 

で、ここで注目したいのは、5人のうちの誰かではなく、かつて拓人の親友だったギンジという人物。「かつて」というのは、物語の開始時点で拓人とはすでに疎遠になっているから。そのことを示すかのように、作中、彼は拓人の回想の中にしかほぼ登場しません。

拓人とギンジはかつて同じ劇団で演劇をやっていた元劇団員同士。引退と同時に大学を辞め、自分の劇団を立ち上げて本格的に自分がプロデュースする演劇を始めたギンジは、いそいそと就活する拓人とはまったく異なる道を歩んでいます。

いかにもな決意表明が綴られたギンジのブログのトップページを見て、拓人は「寒い」と感じてしまう。お芝居の脚本を書いていた拓人には、一歩引いて人間観察をしてしまう傾向があり、ギンジについても、彼なりに分析して考察してしまう。で、酔ってんじゃねーよ、痛いよ、みたいなことを思う。それでも、毎月欠かさず公演を行い、精力的に活動するギンジの劇団の評判をネットでチェックすることがやめられない。観客として、舞台に足を運ぶことはしようとしないのに。

 

詳しいネタバレは控えますが、物語の終盤、拓人は強烈なしっぺ返しをくらうことになる。このギンジの姿勢を認めざるを得なくなる。というか、認めなくてはいけないことを認める。

その辺がね…もうほんと刺さるんですよ…。イタタタってなる。おそらく人生の迷子であればあるほど、メッタ刺しにされる。

 

初めて読んだ時、これ、朝井さん、自分の経験を書いているんじゃないかなと思った。

朝井リョウという作家が世に出てきたときのことを、私は非常に鮮明に覚えている。(ちなみに綿矢りさのデビュー時はもっと強烈に覚えている。)なぜなら、大学生だった彼が所属していたのが、当時の私がどうしても行きたかった大学の学部だったから。新設されたばかりの、文芸創作の学べるところだった。もちろんすぐに『桐島、部活やめるってよ』を手に取ったし、文芸誌のインタビュー記事も見つけただけ読んだ。大学生になるのと同じタイミングだったから、2010年の3月だった。

 

天才直木賞作家なんて言われて、飄々としているイメージが強いけど、朝井さんははっきりと「売れたい」と明言している作家さんです。(先週のananでもおっしゃっていた。)そして、売れるような小説を意識して書いている。『何者』だってそうだと思う。就活、SNS、大学生の自意識、これらのモチーフを使って、「現代を生きる若者」である自分にしか書けないものを自覚的に書いている。少なくとも私はそう感じています。

聞けば、彼は高校生の頃から文芸誌に作品を投稿し続けていたらしい。何度か送って、引っかかったのが『桐島』だったという。

 

と、ここで、自分が大学生活で出会ってきた人たちを振り返ってみる。

私は入学と同時に日本で一番大きいと言われる国際系の学生団体に入会して、丸3年間そこで活動している。100人規模の大学支部の経営層の役職まで経験した。と同時に、大学3年生の夏に、教育格差の解消を目指す教育系のNPOに関わって以来、縁あって現在までその団体にお世話になっている。

なかなか「意識高い」部類の学生だと思う。

とまあ、そんなことをしてきているので、結構な数の「意識高い」という言われる人種には出会ってきた。その中には何人か、桁外れのエネルギーを持って行動していた人もいて、「この人がこのままの状態で突き進み続けたら、本当に社会変わるかもなあ」と率直な感想を抱いたこともある。その人たちに共通していたのが、周りからの「意識高いねー」的な評価は一切気にしていなかったこと。というか、まったく興味がなさそうに見えた。彼ら、彼女たちは、目の前にやりたいことや解決したい課題があって、その達成のためにただ動いているだけなのだと思った。

本気になると、周りの目は見えなくなる。逆を言えば、周りが気になるうちは、本気になりきれてない。シンプルだけど、そういうことなんだろうな。

 

『何者』には、終盤、就活仲間の1人が放つ、こんなセリフがある。

 

「いい加減きづこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」

 

「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかってるから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままがんばるんだよ。」

 

このセリフ、私はどうしても、朝井さんと重ねて解釈してしまう。おそらく、彼自身がそれを体現した人だから。

傍観者でいるうちは、痛くてカッコ悪いのにがんばってる人が「意識高く」見えてしまう。と同時に、傷つかなくてすむけど、何かを達成することもできないってことなのだと思う。で、「意識高い」といわれて、動揺してしまう人は、本当の意味でがんばっていない人なのだろうと。

 

それじゃ、そんな「意識高い」を呼び寄せるものの正体は何なのか。

結局のところ、それが自意識なのでしょう。

 

いやー思っていた以上に意識高めなこと書いちゃった。それにしても、理解できても実践に移すのがなかなか難しいって思っちゃうんだけど、その時点で甘えなんだろうな…。

 

ちなみに朝井リョウさんの作品、私は『少女は卒業しない』という連作短編集に収録されている『在校生代表』というお話が一番好き。この主人公の女の子みたいな子、めっちゃ好き。

少女は卒業しない

少女は卒業しない