カルチャー心酔雑記

モラトリアムが延長戦に突入した大学生が、カルチャーとイチャイチャした記録です。

『チョコレートドーナツ』について②―同性愛と疑似家族―

『チョコレートドーナツ』について① ―人権についての感想― - カルチャー心酔雑記

っていう記事を先日書いたのですが、この映画について別テーマでもうひとつ。

以前から感じていたのですが、やっぱりそうなんだなーと感じたことがある。

それは、同性愛と疑似家族は親和性が高いってこと。

同性のカップルの場合、(少なくとも本人たちだけの身体機能だけでは)生殖は不可能なので、血縁のない家族を形成しようと思うのは自然な流れなのかもしれません。この手のフィクションってたくさんある。日本のものだと、長澤まさみさん主演のテレビドラマ『ラスト・フレンズ』なんかが該当するかも。

 

同様のテーマを扱った漫画としてこんなものがあります。

オハナホロホロ (Feelコミックス)

オハナホロホロ (Feelコミックス)

 

 

鳥野しの『オハナホロホロ』。

読んでみるとそれがすごく伝わってくるのですが、この作者の方、『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』の羽海野チカさんのアシスタント出身なのです。(ハチクロ巻末のウミノ村の住人の中では、「はれちゃん」という名前で紹介されている。)コマ割りとか、モノローグの使い方とか、すごく影響が出ているなあと感じる箇所が随所にあるのですが、その最もたるものは、すべてをまるっと肯定してもらえるようなあったかい感じであると個人的には思っている。

これはあるライターさんから聞いたお話なのですが、疑似家族を描くのは羽海野ファミリーのお家芸のようなものなのだそうです。確かに『ライオン』の零くんも川本家と家族のような関係を築いているし、『ハチクロ』の竹本くんたちもボロアパートでいわば共同生活をしている。

やっぱりそんな疑似家族が描かれている『オハナホロホロ』ですが、ストーリーはこんな感じ。(ネタバレしてるよ!)

翻訳家である主人公の麻耶は、ひょんなことから学生時代に同棲していた元恋人、みちると再会します。昔と大きく違ったのが、みちるには子どもがいたこと。夫と死別し、いっぱいいっぱいの状態で仕事と子育てをこなすみちるを見かねた麻耶は、彼女に再度一緒に暮らすことを提案します。今度は「同棲」ではなく「同居」として。こうして麻耶、みちる、そしてみちるの息子のゆうたの同居生活が始まりますが、その後、ふとしたことから3人は駆け出しの役者であるニコという男性と出会います。ゆうたの父親の友人だったというニコは、3人が暮らすマンションの階下の部屋に引っ越して来て、麻耶たちの部屋に入り浸るようになり、大人3人子ども1人のいわば疑似家族が形成される。赤の他人とは思えないほどにゆうたを溺愛するニコですが、実はこれには大きな理由がある。今は亡きゆうたの父親の恋人が実はニコで…

と、人間関係がなかなか複雑なのですが、主要な3人がバイセクシャルとして描かれていることが大きな特徴。

それ以上に特徴的なのは、性について、一般的な規範が解体された、フラットな社会認識の中で物語が展開していくということ。

 

男↔女の規範の解体

 まず、この漫画を読んだ際、とても印象深かったのが、異性愛が完全に相対化されているということ。前述の通り、主要な登場人物全員がバイセクシャルですが、同性愛者ではなく両性愛者であるという点がポイント。というか、「人を愛する際に対象が同性か異性か」という概念がそもそもない。「好きになった人がたまたま同性(異性)だった」感が強く、「性別を超えた固有名詞としての相手」をそれぞれが愛している。既存の異性愛と同性愛という規範が完全に解体されているのです。

それゆえ、登場人物たちが「同性を愛してしまった」という自身のセクシュアリティに悩む描写は一切ない。対象に性差がないというだけで、ほかの恋愛ものと何ら変わらない恋愛模様が描かれます。このように、恋愛というフェーズにおいては、セクシュアリティゆえの生きづらさがほとんど感じらられないのです。登場人物たちのセクシュアリティにまつわる自意識もまったく話題とされない。

じゃあ何が大事になってくるんだというと、これがこの漫画のメインテーマなのであろう「家族」。
(この「家族」を際立たせるため、作者の鳥野さんは恋愛におけるセクシュアリティの葛藤を排したのではと個人的には思っている。)

再びみちると同居を始めた麻耶ですが、彼女とまた恋人同士には戻ろうとしない。なぜなら、今度は2人だけの問題ではないからです。「みちると恋人として一緒に暮らす」ことは、「ゆうたを2人で一緒に育てる」ことと同義。ゆうたは女性2人の両親を持つことになる。そんな「普通でない家庭」を築いては、ゆうたにつらい思いをさせてしまうのでは…というのが全編を通した麻耶の葛藤。事実、ゆうたは、女性2人が一緒に暮らしている家の事情を知った保育園の友達に「ゆうたくんちって変!」と言われてしまう。

(『チョコレートドーナツ』にはこの普通じゃない家族を築く葛藤に苦しめられる描写がほぼなかったので、その点では対照的かも。)

 

家族の役割の規範の解体

 もうひとつ、解体されている規範が「家族の役割」。これは『チョコレートドーナツ』でも同様ですが、同性カップルの家庭を描いたフィクションにおいては、父親と母親の役割が明確でない場合が多いのです。(そもそもどちらが父親でどちらが母親だって感じなんだけど。)旧時代的な「父親は外で働いて、母親は家で家事」という規範からはもちろん外れているし、その役割自体が不明確になっている。家事・子育てにそもそもの役割がない。

『オハナホロホロ』でこれがうまく行っているのは、麻耶の翻訳家という職業に理由があります。彼女の仕事は自宅でできるものが大半のため、外で働くみちるに代わり、朝の忙しい時間帯の家事や、ゆうたの保育園への送り迎えを担うことができるのです。さらにこの家庭にはもはや家族同然のご近所さんニコがいるので、彼がゆうたの身の回りの世話を担うこともしばしば。

 『チョコレートドーナツ』でもこれは同様で、家事と子育てにそもそもの役割は描かれていません。(こちらのマルコの両親は、ルディがシンガー、ポールが弁護士、と、個人的にはなんとも羨ましい両親だと思う。)

 

 


と、このように同性愛で結び付いた疑似家族は、それゆえに社会的な規範を壊してしまう傾向を持っている。

だからと言って、血縁を完全に否定しないのが『オハナホロホロ』の興味深いところ。物語の終盤、恋人だったゆうたの父親、圭一の死の真相を知って絶望するニコを救うのは、他ならぬ圭一の血を引くゆうたなのです。

そして、恋人として別れ、家族になることを踏まえて再度結ばれた麻耶とみちる、新しく家族となったニコを出会わせたのも、まさにゆうたとその父親。大事な人たちを失った登場人物たちは、巡りめぐって、一組の家族という姿に終着します。

ゆうたにとっては まやちゃんが「自分を叱ってくれる人」に なったってことだから

だってそれって‐‐‐… ゆうたを愛してくれる人がひとり 増えたってことだから
(第33話)

 上記は、初めて本格的にゆうたを叱った麻耶に対してみちるがセリフ。ゆうたを含めて、3人がまるっと家族になったことがまさに象徴されている。

このように、性別や立場を超えた「固有名詞としてのその人」を愛する登場人物の姿が描かれているのが、『オハナホロホロ』の大きな特徴だと思う。

 

 

ちなみに性にまつわる「固有名詞としての相手を愛する」が主題の映画にはこんなものもある。こちらはLGBTのTが取り上げられているお話。


映画『わたしはロランス』予告編 - YouTube